結構気に入っている、人とは違う道
今、私は会社勤めをしていません。
高校卒業と同時に就職し、働くこと20年。今は人生の夏休みを過ごす40代です。
18歳の頃、まわりの友だちが大学や専門学校に進む中、私は就職する道を選びました。どうしても勉強したいことが見つかったら、そのとき大学へ行こう!
そう心に決めた私は、今、大学3年生です。
自分でコンテンツ制作の仕事をしながら、通信制の大学で思う存分勉強する日々。どうしても勉強したいことが見つかった、そのときが私の大学進学のタイミングでした。
大学進学に限らず、いろんな点で人と違う道を歩いてきました。
そして、そんな自分の人生を結構気に入っています。
けれど、いつもそう胸を張って生きてきたわけではありません。まわりと違うことは、なんとなく不安だったり、なんとなく孤独だったり。
最近読んだ、エーリッヒ・フロムの『自由からの逃走』という本。そこで出会ったのが、自由とともに存在する「孤独」や「不安」でした。
「あぁ、私この感覚知ってる…」
フロムおじさんが難しい言葉を並べて説明している「孤独」や「不安」が、自分の経験と重なりました。
「収益が少ない私=価値がない?」
ある日の大学の授業で。「高卒は生産性が悪い」というフレーズを、なんともサラリと言ってのけた教授。
「え?今なんて?」
私は耳を疑いました。
生産性が低い大卒もいるし、生産性が高い高卒もいるだろう。
いやいや、そもそも人間を捕まえて「生産性」ってなんだ?
工場の機械なのか?
そんな問いが頭をぐるぐると駆け巡りました。
人間の価値を、社会的・経済的な有用性で測ることはできるのか?
「有名企業で働いています!」
「こんな立派な肩書があります!」
「○○億円稼いでいます!」
仕事や肩書き、収入は、自分が何者なのかをものすごく簡単に説明してくれます。そして、私たちは人を見るときにも、つい同じ物差しを当ててしまいます。
でも、
仕事や肩書き、収入で、人間の価値まで決まるのだろうか?
社会でどれだけ「役に立つか」が、そのまま人間の価値になるのだろうか?
年収は、私の「値札」なのか?
『自由からの逃走』を読んでいると、なんとも興味深いフロムおじさんの言葉が。現代人は、自分自身をひとつの「商品」のように感じている、と。
…商品?
私は自分を商品だと感じたことはない。
でも、
「有名企業で年収○○億円」
それは、「神戸牛1万円」と同じではないか?
神戸牛には値段がついている。
私たちにも、年収という数字がついてくる。
牛肉とは違うけれど、
数字の大きさで価値を感じ始めたとしたら?
…あれ。
ちょっと商品っぽいかも。
でも、年収はあくまで、その人の仕事に支払われる金額。
その人自身につけられた値札ではありません。
それなのに、収入が少ないと、なんとなく自分の価値まで低いような気がしてしまう。立派な肩書きがないと、なんとなく自分まで小さくなったような気がしてしまう。
いつの間にか、仕事につけられた値段と、自分自身の価値がごちゃ混ぜになってしまう。
「収益が少ない私=価値がない?」
いやいや。
もちろん、そんなはずはない。
でも、そう感じてしまいやすい社会の中に、私たちは生きているのかもしれません。
次回へ続きます🪴
