隠れた支配の構造

白い壁に、植物の影が映っている

※個人的な発作体験や過去のトラウマについて触れています。心身に不安のある方は無理せず読み進めてください。


愛だと思っていたものが、いつの間にか支配にすり替わっていたことはありませんか?私も以前、そんな経験をしたことがあります。今回は、そのときのことを少しお話ししようと思います。

「愛とは、犠牲を払うこと。」
指導的立場の人から繰り返しそう教えられました。

宗教的な家庭に育った私は、幼い頃から神様を純粋に信じていました。嬉しい時には神様に感謝し、困ったときには祈る。神様の存在は、私にとって揺るぎない支えでした。

けれど次第に、求められる「犠牲」は大きく、そして強制的なものへと変わっていきました。「神様のために」と言われながら、宗教活動のために休む間もなく働き、経済的な負担も増えていく。指導的立場の人に反対意見を言うことは許されず、団体外の人との関係や外部からの情報を制限される環境でした。

そうした日々の中で、私は少しずつ疲弊し、心の自由を失っていったのです。心の奥では小さな声が聴こえていました。「これは本当に“愛”なのだろうか」と。

それでも当時の私は、「神様のために」働いている指導的立場の人たちは良い人なのだと信じていたかったのです。

けれど、カウンセリングを通して見えてきたのは、愛という名のもとに隠された支配の構造でした——。

ある日カウンセラーさんにこう言われました。
「犠牲を払う人がいるということは、恩恵を受ける人がいるっていうことなんですよ。」

一瞬、言葉に詰まりました。
「…恩恵を受けているのは神様なんです。」

するとカウンセラーさんは、少し間をおいてから、静かに言いました。
「その神様って、なんだか人の形をしているような…。」

その言葉にハッとしました。もしかして、「神様のために」と言われてきたことは、本当は“誰か”の利益のためだったのではないか——。

その瞬間、心の中で何かが音を立てて崩れていくのを感じました。犠牲を払う人がいるということは、愛が誰かの支配の道具になっているということ。もしそこに「人への服従」が生まれているとしたら、それはもはや愛ではなく、支配の構造です。

そして、そこには「愛」ではなく「恐れ」が働いていることもあるかもしれません。私は、家族やまわりの人との関係が悪くなることを恐れていました。また、役に立たなければ自分の存在自体を否定されそうな恐怖も感じていました。さらには、神様がそう願っていて従わないことは悪いことだと信じ込んでいたのです。

恐れは、いつの間にか人の自由を奪っていきます。神の名を使って人を従わせる構造の中で、本来の「信じる」という行為が、歪められていくのです。

本当の信仰は、誰かを縛るものではなく、人を自由にし、心を解き放つもの。愛は犠牲ではなく、いのちを生かす力であるはずです。

誰かが犠牲を払い続ける信仰は、もはや愛ではありません。もしそこに、愛の名を借りた支配があるなら、それを見つめ直す勇気こそが、本当の信仰だと気がつきました。

このようなことを、私はいっぺんに理解できたわけではなく、少しずつ解かれていき、今に至ります。

もし同じように「神様のため」という言葉のもとで苦しんでいる人がいたら、忘れないでください。神様は、あなたが苦しむことを望んではいません。あなたが自由に、安心して生きることを願っているはずです。

次回は、この環境から離れようと決めた時のことを少しお話ししようと思います。